スポンサーサイト

--.--.--.--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

文章読本(谷崎版)

2013.10.21.Mon
 ごぶさたしておりますm(_ _)m

 谷崎潤一郎の「文章読本」を読んでいます。これまで恥ずかしながら、文豪や文学者が書いた文章読本は読んだことがありませんでした。そこまで手と意識が回りませんでした。「理科系の作文技術」とか、「日本語の作文技術」とか、その辺りどまりだったわけです(しかも、ほぼきれいさっぱり忘れているという・・・・・・)。でも、おもしろいと聞いたので、読んでみようと思いました。

 まだ途中ですが、仕事に直接役立つかどうかはわからないけど、意識の底に置いておくとよさそうだと思いました。特に、「西洋の文章と日本の文章」という項は参考になります。谷崎という人は、日本語のことはもちろんでしょうが、英語のこともよくわかっていたんですね。ややこしい英語の文章を谷崎自身が日本語に訳したところがあるのですが、たいしたものです(← エラそうに)。両言語の違いは、こんなところにあるんだということを覚えておくと、仕事の上での考え方がだいぶ変化しそうです(技術系翻訳の訳文に実際に反映させることができるかどうかは別)。これまでの自分の考え方が、それほど的外れではなかったんだ、とホッとしたところもあります。

 英語はレンガ造りの建物のように緻密な構造だけど、日本語の構造はすき間だらけというのは、よく言われるところです(← 表現はさまざまかと思います)。以前、医学翻訳で有名なM口理恵先生の単発セミナーを受講したときも、「英語はレンガ造り、日本語は余白が多い水墨画」というような意味のことを、何かのついでにおっしゃっていたように記憶しています。

 でも実を言うと、このことはこれまで、自分自身の感覚として今ひとつ腑に落ちていませんでした。ふうん、そんなものなのかなぁ、という程度で。わたしは英訳をやっていないので、余計にそうかも。でも、この本を読んで、そのことにようやく納得がいきました。

 だいぶ古い本なので(1934年発行)、やはりこの時代の見方だなぁと思う面はけっこうあります。また、日本語の性質をつらつらと述べたうえで、「われゝの国の文章が科学的の著述に適しないことは当然」と断定しているところもあって泣けてきます。でも、さすがに鋭いなと思わされるところも多いです。

 以上、読書感想文でした。
スポンサーサイト

「日本語が亡びるとき」

2012.08.20.Mon
 夏が苦手なので、毎日溶けそうになりながら、なんとか生きています。わたしほど秋風を待っている人はいないわ、きっと…。

 しばらく前に、「知的文章とプレンゼンテーション」という本をご紹介しましたが、この本の影響で(←わたしはなんでもかんでも影響を受けやすいのですけど)、仕事に直接関係した実用的な本だけではなく(「英訳」とか「類義語の使い分け」とか「医学統計」とか)、言葉そのものに関する本をいくつか読みたくなって、ちょっとずつ(なかなか進みませんが)読んでいます。まずは、水村美苗の「日本語が亡びるとき」を手に取ってみました。水村美苗の本のことは、「知的文章…」にもよく出てきます。

 一読して、これまでこの本を読んでいなかったことを恥じました。言葉と翻訳にかかわっている者の端くれとして、この本を読んでいないなんてありえない(気の弱いわたしが、ここまで言い切るなんて、それこそありえないほど珍しいことです)。たしか、出版当時(2008年)に大変話題になったことは、わたしも記憶しています。それなのに、すぐに読まなかったんだからなぁ。何やってたんだろ???たぶん、目の前のことに必死で、それ以上のものに気持ちを向ける余裕がなかったのかなぁ。

 このままでは日本語が亡びてしまう、真に読まれるべきことは日本語では書かれなくなってしまうし、そういうものを読もうとする人もいなくなってしまう、という強い危機感が伝わってくる本です。英語のこと、日本語のこと、文学のこと、国語教育や英語教育のことなどについて書かれていますが、それだけにはとどまらないスケールの大きい本なので、わたしには、この本のことを手際よく語る能力はありません。どのことについても単に現状を語るのではなく、これまでの長い歴史から説きおこされていて、「そういうことだったのか」という驚きと強い説得力がありました。

 必然的に、翻訳のことについても書かれています。学問するというのが、ラテン語で読み書きすることを意味した時代から、明治時代に日本で西洋のことを学ぶために必死で行われた翻訳についてまで、その時代時代で翻訳というのがどういう意味をもつ行為であったか、どんな人が翻訳に携わってきたのかが丁寧に書かれています。わたしが仕事として行っている翻訳は、そういう翻訳とは意味も次元も異なりますが、言葉を仕事としているからには、知っておきたいことだと思いました。

 印象に残ったのは、アイルランドの言語政策のことです。アイルランドの人々が日常的に使っているのは英語ですが、実は英語はこの国の第二公用語にすぎず、第一公用語はゲール語で、ECの公用語の一つにさえなっているのだそうです。政府の公式文書のほとんどは英語とゲール語の二カ国語で書かれ、義務教育でもかなりの時間を割いて教えられているのだとか。

 まぁ、イギリスとの歴史的な軋轢の大きさを思えば、アイルランドの反英感情は相当なものと思われますが、それにしても、うらやましいと思えるほどの贅沢な、気骨ある政策です。実際には、Wikipediaによると、それほどの手厚い保護にもかかわらず、ゲール語は衰退の一途をたどっているようで気がかりです。英語の勢力の大きさを思わせる話です。言い忘れましたが、この英語の勢力というのが、この本の大きなテーマの一つになっています。

 最近どこかで読んだ受け売りですが、某○マゾンのレビューがたくさんあって、評価が1から5まで散っている本は「買い」だそうです。この本も、まぎれもなく、その一つだと思います。

クモのレース

2012.06.05.Tue
 安房直子さんという童話作家のことを、このブログに書いたことがありましたが、この人の話のなかで、もう一つ、心に残っている話があります。「丘の上の小さな家」という話です。

 丘の上に小さな家があって、そこにかわいい中学生の女の子とお母さんが住んでいました。かなちゃんという、この女の子はレース編みが好きで(昭和だわぁ…)、いつもベランダに座ってレースを編んでいました。そんなかなちゃんは、ある日、クモに話しかけられます。「あなたのレースと、ぼくのレースと、どっちがすてきでしょう?」と。かなちゃんが顔を上げると、クモが巣を編んでいました。その銀色の巣のレースがあまりに美しく、かなちゃんはとりこになってしまいます。

 そのレースの編み方を教えてくれる学校が、町の向こうの森の奥にあると聞いて、居ても立ってもいられなくなったかなちゃんは、ある夏の朝、森に出かけ、学校の門をたたきます。学校にいたクモの娘達には、「クモでもないものが、クモの学校に入るのは、よくないよ」と言われたのですが、どうしてもと言って、先生にクモのレースの編み方を教えてもらうのです。そして夢中で編み続け、かなちゃんは模様の編み方を覚え込んで、学校をあとにします。

 森を出ると、すっかり夕暮れで、かなちゃんは走って家に戻ったのですが、そこで思いがけない事実を知ります。かなちゃんは、朝に出かけ、森の中で数時間を過ごして、夕暮れに家に戻ったと思っていたのですが、実は、その間に40年という時間が経っていて、お母さんは5年前に亡くなっていました。そういえば、かなちゃんは、学校でレースを編んでいるときに、外から自分を呼ぶ声が何度か聞こえたような気がしていたのです。中学生だった女の子は、自分が知らない間に白髪混じりの女の人になっていました。花嫁になる日のベールを自分で編むことも夢見ていたのに、そんなことの一切をいつのまにか失っていました…。

 という、いわゆる異界譚です。こんな話を思い出したのは、自分が翻訳の勉強を始めてからの時間は、あっという間だったなぁ、と最近何の気なしに思ったのがきっかけです。医薬翻訳の勉強を始めてからの時間だけでも9年目になりましたし、それ以前からも少しですが、翻訳の勉強と仕事はしていましたので、優に10年を超えます。いろいろなことがありましたが、でも、本当にあっという間でした。なので、このレースの話を思い出して読みかえしたとき、少し自分と重なる部分があって、ドキッとしたのです。

 かなちゃんの話には続きがあります。かなちゃんがいなかった時間のことを、かなちゃんに教えてくれたのは、お母さんが飼っていたネコでした。「たかが」レース編みのために失ってしまったものの大きさに愕然とし、お母さんのことを嘆き悲しむかなちゃんを、ネコはそっと慰めてくれます。あなたのレース編みは、そのために人生の半分を引き換えにしても、決して惜しくないものだったと。事実、ネコのすすめで、かなちゃんがレース編みの仕事を始めると、すぐに多くの人が大金を払ってかなちゃんの作品を求めるようになります。

 でも、その後もかなちゃんは、ネコと暮らしながら、折々にお母さんの思い出話をして、「あのとき、クモに会わなければ」という後悔と苦しみを抱えて生きていきます。ネコは、そんなかなちゃんの40年を肯定してくれます。「いいえ、クモに出会わなかったら、こんなにすばらしいレース編みを知らずに、一生を終わるところでしたよ」と。

 何かに取り憑かれたように、あることに夢中になると、時間なんて本当にあっという間に経ってしまうものですが、そのことは、その時間と引き換えにしても、惜しくないものか、惜しくないものにできるのか、なんて考えだすと、怖くて何もできなくなりそうです。でも、実際に夢中になっていると、そんなことは思い浮かばないので、夢中になっている時間は、ある意味、恩寵でもあるのですよね。

 でも、そんなふうに夢中になっている最中でも、ふっと我に返って、これでよかったのかなと迷いが生じるときは、あるものですが、自分がそれまでに過ごした時間、その時間の中でやってきたことを、その後の人生の土台にするしかないわけで。そんなとき、本当に心底救いようがなく後悔することのないように、それまでの時間と引き換えに、きちんと得たものがあるようにしないとなぁ…なんて考えてしまったのでした。

事後確率

2012.02.03.Fri
 唐突ですが、事後確率ってご存じでしょうか?わたしの場合、言葉だけは一応聞いたことはあるし、過去の翻訳原稿にチラッと出てきたような記憶もかすかにありますが、言うまでもなく実際にはよくわかっていません。その事後確率が今読んでいる本に出てきて、つまりはこういうことなのよと、以下のように説明してくれました。よくご存じの方には退屈な話になります。申し訳ありません。

 まず、なんでもいいのですが問いがあり、その回答としてA、B、Cの3つの選択肢があって、そのうち1つが正解、残りの2つが不正解とします。この時点で、それぞれの選択肢が正解である確率は、どれも等しく3分の1です。そこで、とりあえずAを選択するとします。

 ここでヒントとして新たな情報が追加されます。2つの不正解の選択肢のうち1つを消しますということで、選択しなかったBとCのうち、Bが選択肢から消されました。残された選択肢であるAとCから、もう一度「正解」と思うものを選び直すことができます。この場合、AとCが正解である確率は等しく2分の1でしょうか?

 もちろん、どっちも2分の1だろう、とわたしは思いました。ところが違うそうなんです。Aが正解である確率は元のままの3分の1、Cが正解である確率は3分の2になるそうなんです。なんで~~??(涙)

 それはこういう理由だそうです。まず、最初に選んだAが本当に正解である場合、残りのBもCも不正解なので、Bが選択肢から消される割合は50%です。

 でも、もしCが真の正解なら、最初に選ぼうとしたAは不正解のうちの1つであり、残りのBとCのうち、不正解はBだけになるので、Bが選択肢から消される割合は100%になります。

 だから、Bが消される可能性は、真の正解がAかCかによって変わってきます。Cが正解であった場合、Bが消される可能性は、Aが正解であった場合と比べると2倍にもなります。したがって、AではなくCを選択するべきという結論になるそうです。ややこしい話です。

 この話のネタ元は、「ダイバーシティ 生きる力を学ぶ物語」山口一男 著、という本です。物語というか、ある女の子を主人公にした寓話仕立てです。どういう話かというと、上に書いた事後確率のほか、「囚人のジレンマ」、「共有地の悲劇」、「予言の自己成就」、「アイデンティティ」、「ダイバーシティ」、「カントの道徳哲学」、「規範と自由」、「統計の選択バイアス」のような社会科学の概念が盛り込まれていて、ある望みをもつ女の子が旅をする過程で、それぞれの概念を現実として体験しながら、その一つ一つの体験について自分なりに深く考えながら成長していくという物語になっています。ゆっくり考えながら読むとおもしろいと思います。興味のある方は、手にとってみて下さい。この女の子の話のほか、別の話も書かれています。

 事後確率については、この物語を読んだあと、実は日常生活でもしょっちゅう体験していることなんだなということが腑に落ちたような気がします。ある条件で一つの選択をしようとしていて、別のファクターが加わった場合、いくつかある選択肢のうち、そのうちのどれかが自分にとっての正解になる確率は自然に高まる、ということはよくあることです。そういうふうに考えると、事後確率の考え方は、実は感覚的にはスッとわかるものなんだなぁ、と。なぜか数字がからむと、究極の文系人間のわたしには、ぜんぜんわからなくなってしまうのですけど

ダイバーシティダイバーシティ
(2008/07/11)
山口 一男

商品詳細を見る

なつかしい本

2011.12.13.Tue
 小学生のころ、学校の図書室から借りてきた安房直子さんの「ハンカチのうえの花畑」という本が気に入って、何度も何度も繰り返し読んだおぼえがあります。何がそんなに気に入ったのは、よくわからない。とにかく引き込まれたのでしょうね。この人の物語の手触りのようなものは、わたしのなかに長く残っていて、大人になってから、ちくま文庫で作品集を見かけたときも、つい買ったりしていました。わたしにとっては、なんとなく手もとに作品を置いておきたくなる、なにか大事なものとして棚にしまっておきたくなる、そんな作家さんのようです、安房さんは。

 そうはいっても、ごくたまに手に取る、その程度ではあるのですが、最近になって、偕成社から「安房直子コレクション」というのが出ているのを知り、思わず全巻を大人買いしてしまいました。少し古い人(?)なので、そのうち手に入らなくなっちゃったら大変だわ、と思ったもので。

安房直子コレクション 全7巻セット安房直子コレクション 全7巻セット
(2004/04)
安房 直子

商品詳細を見る


 作品を通して何かを強く訴えるとか、そういうタイプの作家さんでもないのも、いいのかもしれません。自由にゆっくり、好きなように作品の中に遊ぶことを許されているような気がします。読んだ後も、やさしく暖かい気持ちになれるものや、静かな余韻が残るものが多いです。

 このコレクションには、安房さんのエッセイが掲載されていますが、作品世界と同じように優しい人柄が感じられる文章ばかりで、あぁ、やっぱり作品は、文章は、人を語るのねぇと思います。そのなかに「海の館のひらめ」という作品について書かれたものがあります。

 この話は、安房さんの作品にしては珍しくメッセージ性を感じます。まじめで正直で一所懸命だけど、ちょっと不器用なコック見習いの青年が、お店の先輩や店主にいじめられるなか、「海の館のひらめ」という魚に助けられながら、おいしい料理の作り方を覚え、独立するためのお店を手に入れ、可憐なお嫁さんももらって幸せになるという話です。なぜ海の館のひらめが、その青年を助ける気になったかというと、正直で一所懸命なところが気にいったから。こうやって筋書きだけを取り出してみれば、お話としては平凡ではあります。ですが、安房さんには、特別な思い入れがある話のようです。

 (『海の館のひらめ』を書くまでは)作品の中に自分の人生観や、重たいテーマをこめたことは、ほとんどありませんでした。(中略)それが、ふいに、こんな作品を書く気になったのは、わが子を、はじめて集団の中に入れて、現実の子どもの世界を、まざまざと見たせいではないかと思います。

 子どもの世界というのは、一見美しいようで、よく観察していますと、まさに社会の縮図です。弱肉強食「正直者が馬鹿をみる」というようなことが、いくらでもおきている世界です。そういうところで、傷ついて帰ってくることの多かったわが子に、私は、どうしても、「もっとしたたかになりなさい。やられたらやりかえして、取られたら取りかえしなさい」と、教えることができませんでした。どんなに損をしても、正直で、まじめなのが一番いいのだと、今、つらい思いをしていても、神様がちゃんと見ていると、教えたかったのです。



 今どきのイジメは、このころよりもっと陰湿でひどいだろうけど、もし、今の時代に安房さんが生きていても、やっぱり、こういうふうにしかできない方のような気がします。作品を読んでいて、ホッとするのは、こういう人が書いたからなんだろうなぁ。正直にまじめにがんばれば、きっと・・・というのは、現代では通用しないお伽噺でしょうか。そんなことはないと思いたい。島田くん(あ、主人公は島田くんというのです)は、今でも世の中にたくさんいる。島田くんと、島田くん君を応援するひらめとの物語も、きっといろんな所でひそかに進行している、そう思いたいのですけどね。なんか小学生の読書感想文のようですが。

 どんな仕事も、正直にやるのが一番、というのは基本だと思うのだけど(そして基本を踏み外せば、必ず自滅していると思うのだけど)、翻訳の仕事は、この「まじめに正直にがんばりさえすれば」というのが実現しやすい仕事の一つかもしれないと思います。わたしのような精神的へたれでも、なんとかがんばれるのは、だからかもしれません。

 ところで、「ひらめ」の話のなかに、こんな文章が出てきます。「(島田くんは)しんけんでした。火かげん水かげん、塩のかげんに、コショウのひとふりまで、けっして、いいかげんにはしませんでした」というのですが、あ、これ、翻訳にも通じるなと思いました。わたしも、ふだんの仕事を、ちゃんとこういうふうにできているだろうか。わが身を振り返って、つい、塩をふられた魚のように身が引き締まってしまった。まじめに正直にやるっていうのは、こういうことなんだわ。やっぱり、この仕事は大変です。でも、やらなきゃ。
 | HOME | Next »
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。